2006年5月30日
世界の森林破壊を追う〜緑と人の歴史と未来〜(石 弘之著)を読んだ。
この手の題名の本は、保護一辺倒の論調ではないか、という先入観があるが、そうではない。
著者は、人間が生きるために森の恵みを使い、森と人間が共存関係にあるべきだという前提に立って、冷静に世界で起きている今の森林の状況を報告している。
そして私は、世界の森は今、たいへんなことになっていることを知った。
木を日常的に使う立場の者としては、衝撃的な内容であった。
日本でいくら国産の木が使われなくて困っているからといって、自然の恵みには変わりがない。
やはり、木は木として、目の前にあるものを大事にいただかなくてはならない。
やみくもに使ってよいものではない。
私たちは木を、木に対する愛を以って、そして人間社会の中で計画的に使っていく必要があろう。
ところでこの本を読んで、「経済」ってなんだろう、「国際社会」ってなんだろう、という疑問が沸々と湧いてきた。
世界の森林が破壊され続ける状況を見るにつけ、「収奪」と「征服」が仮面をかぶったものではないか、という気すらしてきた。
「経済の発展」という大義のもとに、各地域の恵みが収奪されていく。
自らの手と汗で幸せを求めるのではなく、今は他人から何かを奪うことで経済が発展する仕組みのように見える。
「国際社会化」という名のもとに、一つの価値観や文化が押し付けられ、地域の文化が否定されていく。
列強諸国による植民地支配が、‘武器’を変え、姿カタチを変えて各地で続けられているようにも見える。
そしてその行き着く先は、どこまでも同じ価値観や風景が続く世界だ。
日本でもその現象が顕著に出ている。
どのまちへ行っても同じ店、同じ風景。
「地球」は一つしかないけれど、「世界」は一つでおもろいか?
地球上にいろいろな世界があってよいではないか。
いや、そのほうが人間にとって気持ちよいはずだ。
なぜならば、一つとして同じ場所がないのだから、そこで自分たちを気持ちよくするために作る世界もいろいろのはずだからだ。
結局、誰のための「経済」、誰のための「国際社会」ということだ。
自分の利益のみ追求したならば、結局以上のような話になる。
森林の破壊、干ばつや洪水の被害の深刻化、砂漠化…、その場で本来の人間としての活動が困難になる状況となるという現象は、結局そうした行いの集積に対して自然界が出した結論だ。
経済や国際社会の支配者は、こうして食い散らかすだけ食い散らかしたら別の地にシアワセを求めに行けばよいが、元々そこで暮らす人たちにとってはたまったものではない。自分たちが尻を拭わされるのだ。
も少し、三秒でもよいから立ち止まって、‘他人のシアワセってなんだろう’、と考える余地があれば、きっと結果は違うのに。
あるいは、何秒後、何年後の自分だって、ある意味では‘他人’なのだ。
森は人間の鏡。
森がなければ私たちは暮らせない。
今、世界の森、いや近くの森でよいから、森で起きている状況を知り、自分たちの行いを糺していく必要がありそうだ。