記憶喪失のまち
今日久しぶりに、
幼少のころから小学6年生まで
住んでいた最寄りの駅で
電車を降りました。
いつ以来でしょう?
しかしこのまちは、
区画整理が行われ、
道路も建物も
何もかも一新され、
昔の面影は全く
なくなってしまいました。
だいぶ前に来た時、
私が子どもの頃
覚えているまちなみが
まだそこにあった時は、
多少お店や建物が
入れ変わっていたとしても、
ここで○○したなあ、とか、
ここの○○はうまかったなあ、とか、
一歩一歩ごとに記憶がよみがえり、
とてもなつかしくて
そしてなぜか
ドキドキしたものでしたが、
今日来た時は、
私の全く知らないまちでした。
一方、今日の夜、
建築史を学ぶ講座に参加。
その講座で講師の方の
「歴史は時の積み重ね」という言葉が、
お昼のできごとがあっただけに、
よけいに胸に沁みました。
戦後私たちは、
戦争の嫌な記憶を、
捨て去りたかったからでしょうか、
あるいはがむしゃらに、
前を向くしかなかったからでしょうか、
これまで先人が積み重ねてきたものを
否定するどころか、
その存在すら記憶から、
消し去ろうとしてきました。
いやそうすることこそが、
戦争から立ち直り、
戦後の高度成長を遂げる
原動力だったのかもしれません。
ただ今日、
その流れを酌む結果に直面してみて、
がっかりというよりも、
しみじみと、
無常とはこのことか、
と感じ入るというよりも、
全てが無になり、
お互い何も知らない、
赤の他人同士に引き裂かれ、
そこにもう愛は
失われてしまった、
そういう‘乾いた’
気持ちがしました。
しかしこれは、
他所者の勝手な意見、
例えるならば、
昔付き合っていた異性の
結婚相手に口出すようなもので(笑)、
区画が変わる直前まで、
そこに住んでいた人たちの声を
ぜひ聞いてみたいところです。
一方なぜ私は、
歴史都市、いや歴史都市でなくとも、
時を丁寧に積み重ねたまちに
心打たれるのか、
それは単に、
まちなみの美しさ
ということだけではなく、
その理由が肌で
分かったような気がしました。