原点を感じる日
今日は誕生日。
夜、家族が
手巻き寿司とケーキで
お祝いしてくれました。
誕生日は節目として
様々な感慨がありますが、
家族の温かみと
ありがたさを
改めてしみじみと
感じる日でもあります。
この家族の器作りが
家づくり、
私の仕事の
原点の一つを
感じる日です。
昨日の地鎮祭の神主さんは、
鎌倉長谷の御霊神社に
お願いしました。
別名、権五郎神社。
神主さんを現地まで
送り迎えしたのですが、
神社周辺がたくさんの人で
溢れかえっていることに
驚きました。
この神社は、
私が子どもの頃、
たまに遊びに
行っていたところですが、
どちらかというと
ひっそりとした佇まいで、
そういう光景は、
あまり記憶に
ありませんでした。
ましてこの時期は
梅雨時ということもあり、
観光客が大勢来る印象が
あまりない6月、
しかも昨日は平日。
しかし今、
観光客のお目当ては、
あちこちで咲く
色とりどりのアジサイ。
近所のお寺さんを含め、
ここ十年ほど、
アジサイの植樹が
進んだようで、
それでこの時期、
たくさんの人が
訪れるように
なったようです。
確かに、
境内や江ノ電の線路沿いに
咲き誇るアジサイが、
とてもきれいでした。
鎌倉の丘の上に立つ家が
今日地鎮祭。
建主さんをはじめ、
銀行の方、
大工衆3名、
基礎屋さん3名、
きらくなたてものやから3名
が参列。
急に真夏が来たような、
じっと立っているだけでも、
シャツの下から汗が噴き出る
とても暑い日でした。
ここも、
アツい現場になることを
予感させてくれました。
地鎮祭の後、
早速遣方作業。
建物の正確な位置出しと、
高さを決める作業です。
身体を動かしたら、
なお汗が出ます。
水分取りつつ、
作業しましたが、
一向に尿意を催さないほど、
汗で水分を発散しました。
こういうとき、
タオルに顔をうずめると、
本当に気持ちがいいですね。
先日、庭先の土に、
少し古びて
傷みかけていた
ジャガイモを
埋めてみました。
しばらくすると、
その土から芽が生え、
梅雨の雨を浴びて
あっという間に、
元気な葉が
茂りました。
土は、
命を育む基の
一つであることを
改めて感じました。
見渡してみれば、
草が生え、
木が植わり、
住まいが建つ足元には
必ず土があります。
人が暮らす場所、
生を営む場所に、
土がないところは、
ありません。
そう考えると、
私たちは命を育むために、
土を使い、
住まいを作ることは、
必然なのかもしれません。
確かに、
穏やかに暮らしを包み、
大気をじっくりと濾過し、
明日を生きる私たちに
清浄な空気を与えてくれる、
それが土壁の家に暮らす
私の実感です。
そして人は、
土に育ち、
育ち続けて、
遂には最期、
土に還ります。
生きてても、
死んでからも、
私たちは
土と縁が
切れることは
ありません。
土に触れたくなるのは、
土に触れると安らぎ、
何ともいえぬ
心地よさを感じるのは、
そうした土と人との
関係から来る
理屈抜きの
本能なのだと思います。
気の赴くままに、
土と戯れれば、
土は形が動きます。
たとえ
道具がなくても、
手を動かせば、
土は無限に
形の可能性を
秘めています。
だからこそ、身近だし、
だからこそ、奥が深い。
土に触れる現場が、
楽しいわけです。
事実、私は現場に、
イカネバナラヌ、
ではなく、
楽しくて仕方ないので、
イキタイ、ミテミタイ、
私たちの現場は、
そんな雰囲気に
包まれています。
戦後数十年の間、
多くの人たちは、
元来、人間と深い関わりのある
土壁を手放してしまいました。
その理由の一つは、
かかるおカネが
大きいと思いますが、
それだけでは
ないような気がします。
時間よりも速度、
感性よりも理論、
快楽よりも危機回避―
どちらがどうと
いうわけではありません。
その理由を探ることで、
「現代」の一端が
見えてくるような
気がしてます。