土壁のワケ
先日、庭先の土に、
少し古びて
傷みかけていた
ジャガイモを
埋めてみました。
しばらくすると、
その土から芽が生え、
梅雨の雨を浴びて
あっという間に、
元気な葉が
茂りました。
土は、
命を育む基の
一つであることを
改めて感じました。
見渡してみれば、
草が生え、
木が植わり、
住まいが建つ足元には
必ず土があります。
人が暮らす場所、
生を営む場所に、
土がないところは、
ありません。
そう考えると、
私たちは命を育むために、
土を使い、
住まいを作ることは、
必然なのかもしれません。
確かに、
穏やかに暮らしを包み、
大気をじっくりと濾過し、
明日を生きる私たちに
清浄な空気を与えてくれる、
それが土壁の家に暮らす
私の実感です。
そして人は、
土に育ち、
育ち続けて、
遂には最期、
土に還ります。
生きてても、
死んでからも、
私たちは
土と縁が
切れることは
ありません。
土に触れたくなるのは、
土に触れると安らぎ、
何ともいえぬ
心地よさを感じるのは、
そうした土と人との
関係から来る
理屈抜きの
本能なのだと思います。
気の赴くままに、
土と戯れれば、
土は形が動きます。
たとえ
道具がなくても、
手を動かせば、
土は無限に
形の可能性を
秘めています。
だからこそ、身近だし、
だからこそ、奥が深い。
土に触れる現場が、
楽しいわけです。
事実、私は現場に、
イカネバナラヌ、
ではなく、
楽しくて仕方ないので、
イキタイ、ミテミタイ、
私たちの現場は、
そんな雰囲気に
包まれています。
戦後数十年の間、
多くの人たちは、
元来、人間と深い関わりのある
土壁を手放してしまいました。
その理由の一つは、
かかるおカネが
大きいと思いますが、
それだけでは
ないような気がします。
時間よりも速度、
感性よりも理論、
快楽よりも危機回避―
どちらがどうと
いうわけではありません。
その理由を探ることで、
「現代」の一端が
見えてくるような
気がしてます。