休憩は海で
今日は昼過ぎと夕方、
休憩は海で。
僅か数分の滞在でしたが、
やはり海は、
すっきりと疲れを
洗い流してくれます。
競輪選手になる夢、
ではありません。
少しでも
自分で使う電気をまかなう装置として、
自転車発電機がいいなー、
と思って探してみたら、
販売しているところが
あるようですね。
興味津々です。
昔の足踏みミシンのように、
足元でペダルを漕ぎながら、
パソコンの文字を叩く、
それが私の夢の一つです(笑)。
私たちの文化と
それを取り巻く環境は関係が深い、
と常々思っていましたが、
最近読んだ著書「環境考古学事始(安田喜憲著)」で、
それを確信しました。
いや環境が文化を作る、
といってもいいかもしれません。
例えば私たち日本人は、
とかく東日本と西日本に分けて、
文化の対立軸を設けようとしますが、
それは何万年も前から、
東日本と西日本で
森の相が違っていたこと、
氷河期や温暖期を迎えても、
その構図はあまり変わらず、
その中でそれぞれの時代の
森の相に即した生活文化を
作り出していたことによる
歴史の必然だったようです。
しかも東日本と西日本の境界線が、
太古の昔も静岡県の大井川だったという話は、
たいへん興味深かったです。
調査によると大井川は、
気候や地形も手伝って、
森の相の変位点だったようですね。
縄文時代には、
その西方が照葉樹林、
その東方が広葉落葉樹林、
そして大井川周辺は、
スギ林で覆われていたようです。
現在もその地域は
天竜をはじめとして
スギの産地ですが、
この時代からとなると
感慨深いものがあります。
またもう一つ、
その著書のたいへん興味深い指摘として、
農耕は森林の破壊に
他ならないということ、
それが西洋では農耕に家畜を伴い、
また比較的乾燥した気候のために
農耕が一方的な森林の消滅を招き、
だからこそ
森林「保護」という思想が生まれたのに対し、
日本では農耕が平地で行われ、
その周辺部に「里山」という
人間の生活、人間の文化を支えてきた
「共生」の森が人の手によって作られ、
しかも数千年もの間、
維持されてきたという点です。
現代日本では、
とくに高度成長期以降、
この里山が消滅の一途をたどり、
日本史以来初めてのできごとに
危機感を覚えて、
皮肉なことに、
西洋の「森林保護」の思想を
輸入せざるを得ませんでした。
しかし残念ながら、
私たちの支えであった里山は、
さらに壊され、放置され、
放射能に侵されて、
ますます危機を迎えています。
環境が、森が
私たちの文化を形作るのだとすれば、
今の状況が続けば、
それに伴って私たちの文化は
どうなってしまうのでしょうか。
今の環境は今の私たちの文化を
支え続けてくれるのでしょうか。
そう考えると環境問題は、
地球にやさしいかやさしくないか、
という問題ではなく、
私たちがこの地球上で
生き続けることができるかどうか、
他ならぬ私たち自身の
問題と言えそうです。
最近の原発絡みの記事を見るにつけ、
如何に電気エネルギーから脱却するか、
ますます強く意識するように
なってきています。
そこで家庭での電力需要の
様子を見てみると、
エアコンに電気カーペットを含めれば、
約30%が空気加工のために
使われています。
住まいを作る立場の者として、
住まいや空気加工のあり方について
いろいろ考えがあるわけですが、
ここは視点を変えて、
私たちの暮らし方に、
何か改善できる点がないか、
考えてみました。
そこで今回目を向けたいのは、
私たちが毎日三度いただく
「食」です。
よく「旬のものを食べましょう」と
教科書めいたことを言われますが、
寒いときに、あるいは寒い場所で
採れる食べものは身体をあたため、
暑いときに、あるいは暑い場所で
採れる食べものは身体を冷やし、
私たちが長い長い歴史の中で
気候風土に揉まれ、
厳選してきた食べものと私たちの関係は、
そのように実にうまくできているようです。
これを表にあらわしたものが
この「食物の陰陽表」です。
その表を見ていただければ、
例えば寒い寒い冬の朝、
身体をあたためようと思って、
熱帯で採れるものを原料とした
ホットコーヒーやホットココアに
牛乳を混ぜて飲んだら、
かえって身体を冷やすことに
なることが分かります。
コーヒーに合うからといって、
パンにマーガリンを塗って食べたら、
なおさらのことです。
こうした見方で
食べものの選択を変えれば、
もしかしたら私たちの身体の
空気加工に対する依存度が
少しでも下がるのではないかと
密かに期待しています。
ということでクリスマスのお祝いは、
生クリームと白砂糖がたっぷりのケーキではなく、
クリのタルトかアップルパイは
いかがでしょうか(笑)
ちなみにお飲み物は、
タンポポコーヒーで。
その点、
日本の伝統的なおせち料理は、
よーくできています。
今朝は地元商工振興会主催の
朝市が開催されました。
私も商工振興会の一員として、
また今回出店した柞の森音楽祭の一員として、
朝市に参加しました。
朝市で楽しいのは、
まちなかに散在しているお店が
一堂に会するので、
一度にいろいろなお店を
覗けることです。
商品を前に
店主たちと花咲く会話も
また楽し。
しかもこれまでは
食べ物ばかりに
目が向いてましたが(笑)、
今回ははじめて
地元の花屋さんから
花を手に入れました。
早速猫の額の庭先に
花を植えたのですが、
ものの十数分で
一気に庭が華やかとなり、
狭いけど、
まちに庭に、
とても広がりを覚える
日曜日の午後でした。
今日の夕方、
葉山の現場まで
自転車で行きました。
空が澄んでいたので、
たくさんいい風景に
出会いました。
自転車だと、
こうした風景を
ゆっくり味わえるのが
いいですね。
森戸海岸にて。
海の向こうには富士山と江の島が
見えます。
今日は風が強かったので、
荒々しい波しぶきが
立っていました。
波しぶき越しの富士山。
葉山と邸から見た
海と江の島と富士山。
葉山鐙摺港の夕暮れ。
葉山鐙摺港周辺からみた
富士山と江の島。
逗子海岸にて。
江の島と富士山が
重なって見えます。
逗子から鎌倉への
帰り道の海辺。
この景色を眺めながら走るのは、
気持ちよかったー。
法律では、
自転車は軽車両、
だから車道を走りなさい、
ということになっています。
最近自転車暴走族が多く、
歩行者の安全を確保するためには、
基本的にそのとおりだと思います。
しかし自転車によく乗る私は、
車道の路肩を走りながら、
もしその法律が徹底されたとして、
小さな子どもがここを走ったら、
お母さんが小さな子どもと
荷物をかごにかけて
ここを走ったら、
よたよたと走るおじいさんが
ここを走ったら、
本人自身が安全か、というと、
相当疑問に思ってしまうわけです。
ちょっとよろけただけで、
車にはねられてしまいますからね。
現にこの前、
歩道を走っていた
おじいさんの自転車が
何でもない場所で
よろけて転ぶ場面を
見かけました。
また例えば
交差点を渡って
数十m先の左側にある郵便局に
自転車で向かおうとします。
するとどうでしょう。
ほぼ全員の方が
交差点を渡り、
歩道を「逆走」して、
郵便局に向かうのだと
思います。
車道左側通行を
厳密に守れば、
ずっと先の交差点まで走り、
そこで信号を渡って、
また引き返してくる
必要がありますが、
そんなことする人
いませんね。
そしてある日の夜、
交差点で信号待ちをしていて
気がついたのですが、
交差点の自転車レーンは、
歩道を走りなさい、
と言わんばかりの位置に
あるではありませんか。
この状況の中で、
ルールを杓子定規に
自転車=車道を走れ、
とするのは、
正直なところ、
疑問を感じています。
じゃあモラルに頼る?
それでいいような気もしますが、
それでは現状の問題の解決は
難しそう、とも思います。
例えば自転車を買う時、
小学生や高齢者には、
歩道通行シールを貼るとか、
逆に常時時速30kmほど
出そうな自転車は、
車道専用シールを貼るとか、
お酒と同じく、
ハタチになったら、
歩道は卒業、とか、
そうだ!あるいは、
子どももおじいさんも、
車道の路肩なんて
遠慮しないで、
堂々と真ん中を
走ればいいのだ!
という開き直り作戦、
という手もありますね。
いずれにせよ、
面白いアイディアも含めて、
ルールにひとひねり
加える必要がありそうです。
ところで、
自転車=軽車両の問題を語る時、
個人的に思い出深い
できごとがあります。
それは十数年前、
横浜の綱島から都心まで
20数kmの道のりを
週に一度程度
自転車通勤をしていた
頃のことです。
深夜2時頃会社を出て、
赤坂のあたりで
右側にT字路がある道路の左側を
赤信号にもかかわらず
突っ切って走ったところ、
パトカーに追いかけられて、
検問されました。
まあ私も悪かったので、
素直に応じようと思ったのですが、
パトカーから出てきた警官が高圧的に、
「車の免許持っているだろ?」
と話しかけてきました。
私「…はい」
「持っているんだったら、
自転車は何なのか、言ってみろ!」
私「いえ、分かりません。」
「分からない?
免許を取る時、習っただろ?」
それでも質問の意図が
よく分からんかったので、
「すみません、分かりません。」
と答えると、
「自転車は、軽車両だろ!
習ったのに知らんとは、どういうことだ!」
みたいなことを、
どなるように言いました。
そんなこと習った記憶がないので
カチンときた私は、
「じゃあ、小麦の生産高世界第三位の国は、
どこか知ってるんか!」
「いや知らん」
「中学校で習ったはずや!
それと同じことやんけ!」
「そ、そうか。」
と、その場は急速に
和やかになりました。
後で考えたら、
小麦の生産高世界第三位の国は、
私自身、もう忘れていましたので、
切り返されたら「負け」でした。
第三位、くらいにしといてよかった。
そしてその後は、
「こんな時間まで仕事、たいへんだな」とか、
「え!これから横浜帰るのか」とか、
5分ほど世間話。
最後は、
じゃあ、がんばって帰れよ、
と熱く固い握手を交わして、
警官と別れました。
そんな軽車両と小麦にまつわる
深夜2時の思い出があります。