きらくなたてものやのそれはそれはキビシイオキテ
きらくなたてものやでは、
仲間たちが名前のとおり、
きらくに楽しくのびのびと
否定の言葉をあまり発することなく
仕事をしていますが、
その一方で、
それはそれはキビシイ
三つの掟があります。
叩かない。
悪口言わない。
「先生」と
呼んではならない。
全ての存在・事象に
意義を見出すために、
みんなの力を
掛け合わせていくために、
それはそれはキビシイこの掟を
よろしくお願いします。
きらくなたてものやでは、
仲間たちが名前のとおり、
きらくに楽しくのびのびと
否定の言葉をあまり発することなく
仕事をしていますが、
その一方で、
それはそれはキビシイ
三つの掟があります。
叩かない。
悪口言わない。
「先生」と
呼んではならない。
全ての存在・事象に
意義を見出すために、
みんなの力を
掛け合わせていくために、
それはそれはキビシイこの掟を
よろしくお願いします。
ここしばらく、
8月とはいえ気温の低い日が続き、
‘寒い’とさえ思うほどです。
しかしその時の室温を見ると24〜25℃
冬の間室温がそのようだったら、
暑くてしかたないのではないかと思います。
ですのでここ最近の様子を見て、
私たちの温度の感じ方は、
相対的な変化に
左右されやすいということを
思い知らされました。
ところで先日、
「まちなかで土壁の家をふやそうの会」の企画で
都内でお話をする機会をいただきましたが、
その際、
土壁の「心地よい」という感覚を
情緒的にだけではなく、
理屈で表現することも
大切だという話題になりました。
そこでここ最近の
天気の様子と照らし合わせてみて
土壁に感じることは、
土壁の家は、夏も冬も、
温度変化と湿度の変化が、
実にゆるやかであるということ。
つまり温度も湿度も、
相対的な変化が小さい
ということです。
例えば7月の下旬、
本格的な夏がやってきた頃は、
家の中がまだ梅雨時の気温を記憶していて、
それほど暑さが応えるほどにはならず、
しかしお盆の頃になると、
家が暑さを覚えて、
正直夜になってもなかなかの暑さ、
とはいえ常に
冷房に晒されていなければ、
身体が暑さに慣れた頃なので、
今年の酷暑でさえ、
冷房がなくても
凌げないことはありません。
そしてちょうど
暑さに疲れてきたなと思う頃、
お盆休み。
お盆に休む習慣は、
そんな気候的要因が
あるのではないかと思うほどです。
さらにお盆が過ぎると、
気温が徐々に下り坂となり、
少しずつ身体も楽になっていきます。
この室内の気候変動が
実に緩やかという感覚は、
湿度の変化も然り。
冬の寒さも然り。
確かに冬は寒い時期が
酷暑の時期よりも長いので、
夏場以上に
何かしらの工夫と対策が
求められますが、
いずれにしても
この温度・湿度の相対差を
小さく感じるという実感は、
土壁の特長を語る一つの要素だし、
これを実証する数値上の根拠を
得ることができればと思います。
夏休みの前半は、
大学の頃からの友人たちと
恒例の川の旅。
http://blog.goo.ne.jp/riverjack
今年は11年ぶりに
三重と和歌山と奈良の境を流れる
北山川を旅しました。
その詳しい様子は、
別の場でお話しさせていただくとして、
とにかく自然の造形が織りなす荘厳な風景が
感動的に美しかったです。
対して人間が作るものの中で、
ここまで感動的に美しい作品に出会うことは
なかなかありません。
それどころか、
この風景の中で
人間が作り出したものに出会うと、
風景としては、
正直残念な気持ちに
なることが多いです。
ですので川を旅するたび、
美しいものを作り出したい者として、
人間が太刀打ちできないほどに
自然界は美しい、
だとすれば
その美しい自然界に
できるだけ受け入れてくれるような、
ものを作っていきたい、
と思うのです。
手を加えるほどに自然界と溶け込む、
「里山」のようなたてもの。
今の自分の活動が
それに近づいていこうと
しているのだろうか、
川の旅は、
もちろん第一に楽しいから
行くのですが、
結果として、
そんな自分のものづくりの哲学を
確かめる機会でもあります。
今後の住宅・建築物の省エネルギー対策の
あり方に対する意見へのパブリックコメントが
年始早々の昨日〆切だったので、
駆け込みで以下のとおり
意見を述べさせていただきました。
色々書きましたが、
つまりは様々な暮らしの哲学がある中で、
それらの一部に制約を与えてよいものか、
という疑問を投げかけたいと思っています。
建築界の絶滅危惧種の主張の一つとして
お読みいただければ幸いです。
・・・・・・・・・・
「検討趣旨」について
「居住・執務等のために消費されるエネルギー量は、他分野に比べ増大傾向が顕著であり」,とありますが、居住のために消費されるエネルギー量のうち約1/3を占める暖房エネルギーについて、ここ50年間の一戸当たりの消費量の推移を調べてみました。1965年から1973年の間、つまり高度成長期に一気に1.68倍に膨れ上がり、それ以降は現在に至るまで、ほぼ横ばいまたは漸増傾向にあります。一気に増加した1965年から1973年にかけては、こじつけかもしれませんが、土壁が衰退し、現代的な乾式工法の黎明期と一致します。つまり伝統的な工法を手放し、現代的な豊かに見える生活を手に入れた結果、暖房エネルギーがわずか10年足らずで1.68倍も増えました。さらに、いささか皮肉的に捉えると、30〜40年前は断熱材がほとんど入っていなかったのに対し、ここ十数年は「省エネ」の概念が浸透してほぼ必ず断熱材を入れていますが、暖房エネルギー量は減るどころか、少し増えています。
いずれにしても、以上のことを含め、もしエネルギー消費量の増大が顕著だとすれば、どの分野の増大が顕著か、詳しい分析を行う必要があるように思います。
「講ずべき施策の方向」について
私たちが目ざすべきは、あくまでも「省エネルギー」です。外皮性能の向上だけが着目されていますが、無駄な物的消費を抑える、エネルギーに対する課税を強化する、などといった、他に効果のありそうな方策にも着目すべきです。
実際、「省エネルギー化」を図るために、今すぐに取り組むことのできない建築物の改善よりも、暮らし方を見直すことにより解決しようとする国民が少しずつ増えてきている実感があります。またその暮らし方を見直す契機づくりを、国が行うべきと考えます。
「外皮性能の確保」について
日本建築家協会(JIA)が建築の外皮性能とエネルギー消費量の相関関係の調査を行い、その調査に関わらせていただきましたが、外皮性能とエネルギー消費量が比例的な関係にあるとはいえず、むしろ住まい手の過去の生活履歴や暮らしの哲学にかなり影響されると私は推測します。
確かに外皮性能を上げれば、一時的に現在よりも消費エネルギーが低減する傾向にあると思うのですが、しばらくして外皮性能の高い居住環境に慣れてしまえば、再びエネルギー消費量は増え始め、あるいは私たちの温度変化に対する適応力がますます劣っていくのではないかという懸念を抱いています。事実、数十年前までは夏季にエアコンがないのは当たり前でしたが、現在ではなくては暮らしていけないと考えている方が多いのではないでしょうか。またエアコンの普及率と熱中症による死亡者数の相関関係を調べてみると、ここ数十年の間、逆比例関係にあるどころか、比例関係にあります。
先日の新聞記事によると、
日本全国の空家が
家全体の13.5%だそうです。
この中には
別荘も含まれるそうなので、
実感としてはもう少し
少ないとは思うのですが、
それにしても、
想像以上の数字。
数にして
なんと820万戸です。
しかも人口が
減ってきているのですから
その数はますます増えそうです。
僕たちのようなたてものやは、
もう要らないですね(笑)。
…と半分冗談めいておりますが、
本気でたてものを巡る仕事のあり方を
考えなければならないのだと思います。
たてものに対する哲学を曲げてまで
この世界に執着するつもりはありませんが、
しかしこの哲学の火が消えては、
世の中つまらなかろうと、
自分では勝手に思い込んでいますので、
自分の哲学には執着して
生き続けようと思います。
さて、
その空家が多い理由一つは、
もう住まないのに、
家を壊してしまうと
土地の固定資産税等の
軽減措置がなくなって、
エライ跳ね上がるから、という話を
耳にしたことがあります。
ナンダカモッタイナイ。
もしたてものを使うめどが
ないのでしたら、
更地にして畑や果樹園にすれば、
引き続き固定資産税等の
軽減措置を受けられるように
できないものでしょうか。
更にそうして農地化した土地を
畑として使ってくれる人たちに
つなげる仕組みを作るのです。
先ほどのとおり、
宅地として使われない土地が
今後たくさん出てきそうです。
そんな土地を、
放ったらかしするくらいならば、
それらを緑豊かな、
むしろ人間の息づかいが聞こえる
畑に、果樹園に、里山に、
してしまいたい。
風景としても、
また地産が進むので
エネルギーのことを考えても、
何だかステキな予感がします。
たてものやが、
たてもの作らんと畑や森を作れ、
と主張するのも、
なかなかステキではありませんか(笑)。
先日の逗子せ邸の完成見学会には、
以前この家の竹小舞かきや柿渋塗りなどの
お手伝いに来てくださった方々も
少なからずご来場いただきました。
完成見学会は、
お手伝いしてくださった方々に対する
お礼という意味合いもあるので、
来てくださったこと、
本当にうれしく思います。
お手伝いにきてくださった方々の
家の中での反応や、
いただいた感想を拝見すると、
たとえ数時間だけだったとしても、
この家に手を加えていただいたことにより、
この家に対する愛情を
溢れんばかりに感じるのでした。
血縁地縁だけではなく、
共感する人たちが
お互いに助け合って作る
「現代版結」の仕組みにより
できあがる家は、
確かにある特定の家族が住む
個人の家なのですが、
気持ちのうえでは
みんなの家でもあるのです。
みんなの目に
見守られながら、
きっとこの家は
家が家でなくなるまで、
育っていくことでしょう。
そしてこうして愛着ある空間が、
まちのそこかしこに連なれば、
どんなに楽しいことか。
大事なことはですね、
やっぱりたくさんの
「愛」だと思うのです。
これからもみんなとたてものを
作っていきたいと思います。
先日某所にて、
江戸時代の古い民家を
拝見させていただきました。
お茶をいただきつつ、
その家の当主の方から、
数十年前、
その方が子どもの頃の
冬場の暮らしぶりについて
お話を伺う機会を
いただきました。
冬は家の外と中とで
ほぼ気温が同じ、
しかも家の方針が、
室内ではできるだけ
火を使わないという
暮らしだったらしく、
家の中は本当に
寒かったようです。
しかし当時、
それが当たり前だったので
何とも思わなかったと、
当時を懐かしむように
仰られていました。
とはいえきっと、
当時の暮らしぶりに戻そうとは
考えておられないでしょう。
しかしそのお話しを聞いて
改めて感じたことは、
私たちがその環境下で
暮らしていけるかどうかは、
「慣れ」の要素も
大きいのではないか、
ということです。
四六時中、
「快適」であるように
機械仕掛けで空気加工された
室内環境が当たり前の
私たち現代人は、
もうそれに
慣れてしまっているので、
恐らくその古民家には
暮らせないでしょう。
それともう一つ、
これは私の仮説なのですが、
冬場でもなぜ、
家の中と外とで
ほとんど気温の差がなくても
大丈夫だったかというと、
現代よりも圧倒的に、
外で身体を動かして過ごす時間が
多かったからではないかと
思っています。
これは夏場も然り、です。
例えば現代でも、
現場の職人さんは、
屋根が架かってるとはいえ、
基本的に吹きっさらしの
空調機械などない場所で
一日仕事していることが多いです。
だからやはり、
寒さ暑さに強い傾向を感じます。
一方で多くの現代人は、
建物の中で過ごす時間、
とくに机やパソコンの前にいる時間が
圧倒的に増えました。
建物の中で
ずーっとじっとしているので、
機械仕掛けで空気加工された
安定した快適さがないと
不快に思う。
そしてその環境に慣れて、
ますます機械仕掛けの空気加工が
手放せなくなる。
それはエアコン普及率
9割という実態が
物語っていると思います。
現代の家づくりの方向は、
家の外皮を分厚くし、
外に開く窓も小さくして、
家の内と外とを
できるだけ遮断しよう、
ということになっていますが、
ある程度は、
そういったことも
考えなければならないでしょう。
しかし
「省エネ」を求めるならば、
やみくもに外を
「遮断」するのではなく、
散歩したり走ったり、
畑に行ったり森に行ったり、
海に行ったり山に行ったり、
空の下にいる時間を
仕事や暮らしの中で
増やすことにも
目を向けようでは
ありませんか。
さあこれから現場。
三年半前に特集した
厨房集合!に引き続き、
ここ数年で
きらくなたてものやが
手がけてきた厨房たちを
紹介します。
厨房の設計は、
如何に機能を
美しく表現するか、
という意味で
木組みの設計と
通じるものがあり、
また私自身、
腕はともあれ厨房に立つのが
好きなほうなので、
自分自身がワクワクしながら
作り込んでいきます。
こうしてできあがった
木の箱でできた厨房たちを
お楽しみください。
■新築編
クリの箱と、
新井さんの建具による
厨房の構成、
そして壁面に貼った
このタイルは、
この頃から
定番になりました。
厨房の奥に
パントリーがあり、
さらに収納が
充実した構成に
なっています。
厨房と居間を仕切る
カウンターの天板はカツラ。
家の入口にあたる
土間に据えた
シンプルなクリと
サワラの箱たち。
彼らがあたたかく
家族やお客さんを
迎えてくれます。
厨房と居間と玄関が
連続する構成に対し、
意識を仕切る
横格子を設けました。
直線状に機能が連なり、
敷瓦の土間に続く構成。
敷瓦の土間には、
オーブン機能の付いた
薪ストーブが据えられる予定です。
この家の象徴ともいえる
木登りできる木が、
厨房を見守ります。
居間への対面式。
抽斗あり、開き戸あり、
棚板あり、ボトルラックありと、
比較的複雑な構成の箱の背面には、
新井さんによる
端正なスギの建具が並んでいます。
■改修編
日野ち邸
集合住宅内の厨房改修。
スギの天板と、
ズラリと並ぶ
調味料入れ用の建具が印象的な
2WAYキッチン。
天板の下も、
建主さんの使い勝手に応じて、
スライド棚あり、可動棚あり、
底の浅い抽斗ありと、
芸の細かい構成となっています。
鎌倉ふ邸
一戸建て住宅の厨房改修。
閉鎖的だった厨房を
食堂側に開きつつ、
機能の確保に努めた計画。
その結果が、
コの字プランの厨房。
細かい余地を利用して、
調味料入れだったり、
ホイル等を入れる場所だったり、
皿を置く場所を作りました。
先日13日に、
今年度の木の建築塾
「在るものを生かす」が
始まりました。
9月度の講師は
工学院大学の後藤治さん。
たくさんの文化財や古民家を
実際に見て触って、
そのうえで醸成された
後藤さんの考えと言葉は、
どれもたいへん興味深いものでした。
その中でも一点
たいへん考えさせられた話は、
今回の塾のテーマと少し離れますが、
アフリカの森林が
危機に追い込まれている理由。
もちろん国内外の建築需要も
あるのでしょうが、
伐採の主な目的は、
現地の人たちが使う燃料調達。
暖を採るため、
煮炊きをするため、ですね。
私は何となく罪悪感を感じながら
これまで化石燃料を使ってきておりましたが、
たくさんの人口を抱える
現代の地球上で暮らすうえで、
もしかしたら
未来への過渡期の「代用品」として
必要なことだったのかもしれません。
一方で私たちの国では、
バイオマス資源が使われずに眠っています。
それはそれで
たいへんもったいないことで、
薪ストーブやペレットストーブなど、
バイオマス資源の活用を促す装置を
積極的に提案し続けていますが、
同時に需要と供給のバランスを
意識する必要性を強く感じました。
そしてもう一つは、
太陽熱の有効利用を
さらに考えていきたいと思いました。
その視点で、
今日開業した「食堂ぺいす」の玄関土間を
一度ぜひご覧になってみてください。
この土間は、
昔ながらの達磨窯を使い、
薪で焼いた敷瓦で
仕上げられているのですが、
その下には
床暖房用のお湯の管が
埋められています。
そのお湯を作る熱源は、太陽熱。
太陽の熱を土(瓦)に蓄え、
そこから発する輻射熱で
暖を取ろうというもくろみです。
例えばそのような仕組みで、
太陽熱利用を提案していこうと思います。
まだまだ暑い時期なので、
その恩恵に預かることができるのは
あと数ヵ月後ですが、
後藤さんのお話をお聞きして、
一刻も早く試運転したくなりました(笑)。
すみません。
恋愛話や夫婦論ではありません(笑)。
先日5月1日、
鎌倉長谷の一花屋さんで行われた、
〜あるものいかす電6生活楽校・ニッポン再発見ツアー〜
「『できた!電気代600円生活』 人力スライドトーク」
という催しに参加してきました。
申し訳ないことに仕事の都合で
大幅に遅れてまいりましたので、
話の流れに乗ろうと耳を立てていた矢先、
聴衆の間で回覧されていた幾つかの雑誌が
私の手元に回ってきました。
なにぶん話を聞くのが途中からで
どのような話の文脈で
それが回ってきたのかは
よく分からなかったのですが、
とにかく私は、
その雑誌の記事に
釘づけになりました。
その紙面で私が目にしたのは、
私たちが普段よく使う家電製品などの
廃棄物でまみれた南国のスラム街。
かつて日本が
富国強兵策のもと
各地で繰り広げられたであろう
厳しい労働条件のもと
工場で働く隣国の工員たち。
カカオ農園でこき使われる
南国の子どもたち。
私達がのうのうと
暮らしている向こうでは、
相も変わらず
社会の様々なひずみが
生じているということに、
頭が揺さぶられた思いでした。
今の世の中ってなんだろ、
「グローバル」という名のもとに
世界中の甘美なものを、世界中で奪い合い、
世界中のいやなものを、世界中で押し付け合い、
弱肉強食が生きものの掟とはいえ、
同じ人間として、どうなんだろう?
この惨状をすぐには
解決できないかもしれませんが、
私たちは目の前にあるものが
誰が作ってどこからやってきて、
そしてそれを使い終わったら、
これはどこへ行くんだろう?という
ものが辿る物語に対して
どの分野においても
強く関心を持つ必要を感じました。
そしてモノに溢れたこの時代、
私たちに本当に必要なものは何なのか、
これから私たちが
手に入れようとするモノに対して
長い間愛し続ける物語を
描くことがができるだろうか、
そのことを
より深く自問する意識が
必要のように思います。
もちろん私が携わる
住まいの世界も、
現代の住まいづくりは、
作る時も壊す時も、
下地材からも仕上材からも、
土に還らない、
あるいは還すことのできない
たくさんの廃棄物が
出てきます。
廃棄物への
関心を持ちつつ、
愛に溢れた物語を、
提案し続けて
いきたいと思います。