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2010年8月30日

熱中症∝快適性?

カテゴリー: 家づくりの理念

先日この場で、
エアコンと熱中症に関する
記事を書きました。

この「熱中症」という言葉、
ここ最近よく聞きますが、
私が二十代の頃までは、
あまり耳にしたことが
ありませんでした。

どうも気になるので
調べてみたら、
1994年、私が大学生のときに
熱中症で死亡する方が急増し、
その年以降、今日に至るまで、
その数はほぼ同じ水準で
推移しているようです。

きっとそれ以降でしょうね、
「熱中症」という言葉を
よく聞くようになったのは。

確かに94年は猛暑の年、
真夏に自転車旅行したので、
よく覚えています。

そしてその前年は、
記録的な冷夏の年。
7月末でも長袖でないと
寒いくらいでした。

その急激な温度差が、
熱中症による犠牲者を
急増させた要因の
一つでしょう。

ただし不可解なのは、
94年の水準が
少し減りこそすれ、
その後もそれほど大きく
変わらないという点です。

やはりここ近年、
地球温暖化が
進んでいるのかも
しれません。

しかし、果たして
それだけでしょうか。

これだけ空調技術が発達し、
普及している世の中です。

これも気になるので
クーラーの普及率を調べてみたら、
94年は約80%、
ここ数年は何と約90%!です。
(となると我が家は残り10%か…)

ほとんどの家に
クーラーがある世の中なのに、
なぜ熱中症被害の水準は、
減らないのでしょうか。

色々要因はあるでしょうが、

私たち建築側が、
家や職場の
「快適性」を追い求めるばかり、
室内の空気を加工することが
設計の前提となり、

その結果、
逆に空気を加工しなければ
到底居られない空間ばかりと
なってしまった、

少し空気の加工を怠れば、
そこはもう、灼熱地獄…

そして人間は、
「快適」に空気を加工した
空間に慣れてしまい、
暑さ、寒さも含めて
温度の許容範囲が狭くなり、

あるいは、
快適な場所が多いばかりに
それ以外の場所、
とりわけ外気を
より暑く、より寒く、
感じるようになってしまった、

建築に関わる立場として
そんな気がして
ならないのです。

そう考えたときに、
「快適性」の追求とは、
一体何なんだろうか、

これまでは、
心地よいとされる温度湿度を
「エコ」全盛のこの時代、
如何に少ないエネルギーで
保つことができるかが
重要な課題でしたが、

暑い日、寒い日もある
この地球上で暮らす
生きものとして、

生きる力を、足してくれ、
とまでは言いません、
暑い日は風と陰の力を借り、
寒い日は火と陽の力を借り、
生きる力を維持できるような
居場所を作ること、

長い目で見て、
そんな視点が
必要のようにも思います。

今の私たちの方向性は、
人間の生きる力を
弱めてしまって
いるのではないか
と考えるのは、
行き過ぎでしょうか?

余談ですが、
熱中症が生じる原因の一つに、
塩分欠乏という文字を
見つけました。

熱中症が最近多い
理由の一つは、
ここ近年、
高血圧対策等としてよく聞く、
「塩分控えめ」が
裏目に出ているのかも
しれません。

実際に塩分摂取量は、
毎年着実に
減っているようです。

日本伝統の
味噌も醤油も、
○○が何グラムではなく、
「美味しいと思える味」
で食べようよ、
と思っているクチです。

2010年7月5日

環境にやさしい、という言葉

カテゴリー: 家づくりの理念

最近、
「環境にやさしい」
という言葉を
よく耳にします。

多くの人たちが
そういった方向に
意識が向くのは
とてもいいことです。

しかしこの言葉、
よく考えてみれば、
何だか不思議な
感じがします。

私たちは、
環境にたくさん
お世話になり、
あるいは、
存在自体がもしかしたら、
環境にご迷惑を
かけている立場。

だとすれば、
環境にやさしく接するのは、
当然といえば
当然のことであって、
殊更「やさしい」を
連発するのは、

「オレってやさしいだろ、
だからありがたく思え。」
みたいな感じで、
少し押しつけがましい
感じがします。

ついでに申せば、
同じく最近よく聞く
「エコ」という言葉も、
聞く回数が多いほど、
同じ香りが私にはします。

ま、やさしくないより、
やさしいほうが、
エコじゃないより、
エコのほうが
いいですけどね。

ただ例えば、
車が如何に
「環境にやさしい」
技術を積んでいても、
車を走らせる、
その行為そのものが
環境にご迷惑を
おかけしているわけです。

ガソリンにしろ
電気にしろ、
環境の犠牲のうえに、
私たちは
走るエネルギーを
得ているわけです。

食べ物と同じで、
何かを使う前に、
買う前に、

それが如何に
「環境にやさしい」
モノであろうとも、

手を合わせて、
ありがたく、
いただきます、
の心を持ち合わせることが、
とても大切なのだと
思います。

2010年6月27日

土壁のワケ

カテゴリー: 家づくりの理念

先日、庭先の土に、
少し古びて
傷みかけていた
ジャガイモを
埋めてみました。

しばらくすると、
その土から芽が生え、
梅雨の雨を浴びて
あっという間に、
元気な葉が
茂りました。

土は、
命を育む基の
一つであることを
改めて感じました。

見渡してみれば、
草が生え、
木が植わり、
住まいが建つ足元には
必ず土があります。

人が暮らす場所、
生を営む場所に、
土がないところは、
ありません。

そう考えると、
私たちは命を育むために、
土を使い、
住まいを作ることは、
必然なのかもしれません。

確かに、
穏やかに暮らしを包み、
大気をじっくりと濾過し、
明日を生きる私たちに
清浄な空気を与えてくれる、
それが土壁の家に暮らす
私の実感です。

そして人は、
土に育ち、
育ち続けて、
遂には最期、
土に還ります。

生きてても、
死んでからも、
私たちは
土と縁が
切れることは
ありません。

土に触れたくなるのは、

土に触れると安らぎ、
何ともいえぬ
心地よさを感じるのは、

そうした土と人との
関係から来る
理屈抜きの
本能なのだと思います。

気の赴くままに、
土と戯れれば、
土は形が動きます。

たとえ
道具がなくても、
手を動かせば、
土は無限に
形の可能性を
秘めています。

だからこそ、身近だし、
だからこそ、奥が深い。

土に触れる現場が、
楽しいわけです。

事実、私は現場に、
イカネバナラヌ、
ではなく、
楽しくて仕方ないので、
イキタイ、ミテミタイ、

私たちの現場は、
そんな雰囲気に
包まれています。

戦後数十年の間、
多くの人たちは、
元来、人間と深い関わりのある
土壁を手放してしまいました。

その理由の一つは、
かかるおカネが
大きいと思いますが、

それだけでは
ないような気がします。

時間よりも速度、
感性よりも理論、
快楽よりも危機回避―

どちらがどうと
いうわけではありません。

その理由を探ることで、
「現代」の一端が
見えてくるような
気がしてます。

2010年5月27日

厨房集合!

カテゴリー: 家づくりの理念

これまで取り組んだ仕事の
今度は、厨房編です。

こうして並べると
十人十色といいますけれども、
厨房も、
使う人たちによって、
想いとカタチは様々です。

私も色々な厨房と出会えて、
楽しませていただいております。

■新築編

カツラの天板に
ステンレス邸シンク

大工造作による
スギの背面収納

システムキッチンと、
随所に位置する
スギの背面収納。

女性的に白く艶やかな
青ヒバの背面収納。

クリの厨房と、
スギの収納。

南側には、
テラスドアの前に、
鍵を掛けつつ風を通す
無双窓の付いた木戸。

敷瓦の土間の上に、
オーブンが付き、
しかもお釜でごはんが炊ける
薪ストーブ。

北澤アートさん作です。

ぬめりが生じにくい、
銅のシンク。

壁は、荒壁塗仕上げ。

長持ちで機能的な
ホーローパネルと
ホーローキッチン。

イチョウの天板と、
土佐漆喰磨き仕上げの壁。

換気扇は、
手元で排気できる
グリーンハイキ。

■改修

クリを使った
鉄筋コンクリート造内の
住まいの厨房(その1)

クリを使った
鉄筋コンクリート造内の
住まいの厨房(その2)

大きな引出しの付いた
クリの厨房。

既存の窓の手前に
厨房機器を配したため、
箱を開けると、
明るい収納が現れます。

吊戸棚の付いた
クリの厨房。

タイルで表情を
作っています。

2009年1月17日

長持ちする家とは

カテゴリー: 家づくりの理念

先代の総理が200年住宅構想を
掲げた影響もあると思うのですが、

最近よく、
家の寿命に関する問い合わせを
耳にします。

そのことに意識が向くこと自体、
とてもよいことだと思います。

では実際、
私の場合どうなのか。

先日、
私が関わる家づくりの記録が
テレビで放映されました。

その番組の中でも、
家の寿命について
触れていただきましたし、

その後番組を見た方々からも、
ありがたいことに、
この造りだったら○○年持つね、
というお言葉を数多くいただきました。

しかし私はそのような
ありがたいお言葉をいただいたとしても、
ハイ!この家は○○年持ちます、
と、堂々と返事できない自分がいます。

それはこの造り方に、
構造上不安があるとか、
そういうことではありません。

○○年持つかどうかは、
最終的に私ではなく、
住まい主自身が決めることだから、

私の口から○○年持ちます、
と言うのは、
少しはばかれるのです。

あるいは、
「持たそうと思えば」
という枕詞を添えます。

もっと言えば、
家の物理的な性能だけで、
○○年持ちます、と
気軽に言っていいのかという疑問が
常に頭に引っかかっているのです。

私は仕事柄、
建ってから何百年も経った
古い民家を見る機会があります。

そうした家の中には、
もちろんしっかりした
造りである場合が多いのですが、
中には正直申し上げて、
この造りで○○年よく持ったな…、
と思うこともあります。
しかも地震などで大きく傾いてもなお、
使い続けている家すら
見かけることがあります。

一方で、
築年数にかかわらず、
いい建物なのに、
まだ使えそうなのに、
壊される運命の家も
たくさん見てきました。

それが例えよい風景を作り、
周りの人たちに愛されていたとしても、

それを持っている人が
「要らない」と思えば、
基本的にはその時点で
寿命を全うしてしまうのです。

こうした経験をしていくうち、
家が長持ちするかどうかは、
物理的な理由もさることながら、
家を持っている人が
使い続けたい、住み続けたい、
という想いが、
実は大きく関わっていると
思うようになりました。

世の中の仕組みや
生活様式に翻弄されることなく、
持ち主にずっと愛され続ける家。

もちろん設計者として、
職人の技を生かし、
丈夫なように、
手が入れやすいように、
家の計画を考えます。

しかしそれはむしろ、
条件というより大前提、
そうした前提の中で、
如何に家が愛され続けるか。

そしてそのためには、
家づくりに関わる職人たちが
如何にその家に愛を注ぎ込み、
また建った後も愛着を持って
関わり続けることができるか、

私は家づくりに取り組む際、
このことを強く強く、意識しています。

ですから私にとって、
まずは目の前の建主が、
この世で生きている限り、
生活の伴侶として
その家も生き続けていてくれること、

「オレは、一生この家に住む」と
建主が言ってくれることが、
当面の第一目標です。

ではその次の段階、
私が今の時点で
建主の次の世代のことを
想像することは容易ではありません、
いやはっきりと、
分からないと言ってもいいと思います。

ただそうした家に対する愛情は、
住んでいる途中で急に盛り上がることは
ほとんどないわけですから、

例えどんな作りの家だったとしても、
家を新たに作る段階で
家づくりに関わる全ての人たちが
えがおで現場に顔を出し、
魂を込めることができるか、

次の世代に愛が受け継がれていくために、
今私ができることといえば、
そのことだと思うのです。

「設計者」という立場として、
家の物理的な性能を高々と掲げ、
後世に残していくことも大事かもしれませんが、
私はそういったことのお膳立てにも目を向け、
力を注ぐべきなのではないかと思っています。

何度も書きますが、
私が家の耐久性のことを聞かれると、
理屈っぽくなって、
何となくお茶を濁した返事をするのは、
造りがヤバいとか、
そういったことではないですからね(笑)。

2008年12月2日

玄関の扉は

カテゴリー: 家づくりの理念


玄関の扉は、
夜帰って来て
その前に立ったときに
家をまもりつつも、
家の中の温もりを
感じられるものが
いいと思っています。

とくに冬になると
そう思います。

2008年6月1日

原風景に思いを馳せる

カテゴリー: 家づくりの理念

先日、東京・九段下にある
国土地理院に行ってきました。

某所の過去の
状況を調べるためです。

ここでは、日本全国、
明治・大正期まで遡って、
数年単位で2万5千分の1の地図を
見ることができます。

本来の目的を済ませたあと、
今自分が住んでいる場所はもちろんのこと、
過去に自分に縁のあった土地が、
昔昔どんな状況にあったか、
ついでに調べてみました。

それぞれの場所の
原風景を知ることができて、
これは実に面白い!

皆さんも、
自分の住むまちの原風景を確認するために、
東京に足を運んだ際には、
一度訪れてみてはいかがでしょうか。

ところでそれらを見てみると、
昭和30〜40年代までは、
日本は至るところ、
田んぼと畑と里山だったこと、
そしてその時期を境に、
どこもかしこも急速に宅地化が
進んだことに気がつきます。

これほど急だと、
「マチナミ」という概念に
目を配る余裕もないまま、
今のまちが作られてきたんだなあと、
納得してしまいます。

こうして今ある大半の
まちの基盤が作られてきたわけですが、
かといって時計の針を
巻き戻すわけにもいかないので、
縁をいただいたまちの
昔昔の原風景に思いを馳せつつ、
豊かと思える街並みとなっていくために、
今できることを、
探っていきたいと思います。

2007年9月4日

木も高齢化社会

カテゴリー: 家づくりの理念

今日は、
神奈川の森や木に関して
相談すべく、
厚木のほうへ行ってきました。

その中で耳に残ったのが、
木が「高齢化社会」を迎えている、
ということ。

つまり、
せっかく植えた木が
ぜんぜん使われないので、
新たに木を植えることができず、
また、
若い木に対して手入れがなされないので、
彼らが‘おとな’になる頃、
使える木が今よりとても少なくなってしまう、
と、そういうことらしいのです。

じいさんたちが植えた木を使い、
孫の代のために、
私たちが森を育てるという、
三世代にわたる森の循環。

木を使うということは、
気が遠くなるほど長い長い年月の、
循環の恵みをいただくことなのですね。

この循環が今、
途絶えようとしているのです。

これは先日うかがった、
飯能の岡部さんも、
同じことを仰っておりました。

戦後、目の前のことに必死だった、
必死にならなければならなかった時代から
一つ階段を上がり、
食も住まいも着るものも、
遠い世代を想い、
そして今、何をなすべきかを
考えなければならない時代に
来ているということを、
改めて感じました。

その中でも、
森に触れ、木に触れるということは、
遠い世代、長い時間を
想うきっかけになり得ます。

木の建築を設計するという、
森とまち、木と人の橋渡しする立場として、
家づくりを契機に、
いや家づくりという、
一生に一度きりのことではなくても、
身近なところ、日々の生活の中で、
森に触れ、木に触れる機会を
提案していきたいと思います。

2007年8月5日

湘南だったら断熱材不要論その1

カテゴリー: 家づくりの理念


鎌倉く邸の屋根に、
ほぼ瓦が載りました。

試しに、
家の中からサワラの野地板に
手のひらを当ててみると、
外は灼熱の陽が注いでいるというのに、
そのサワラは、何事もないかのように、
ごく平静を保っています。

夏の暑い日、小屋裏って、
むせ返るように暑いという
印象があろうかと思いますが、
断熱材の入っていない、
厚い木の板と瓦の屋根は、
風が通るとむしろ、
家の中でいちばん涼しいくらいです。

こうした現象を見る限り、
この地域で木の家を作るときには、
いわゆる断熱材に頼らなくても、
木と土を基本に、
快適な室内環境は得られるのだ!
と私は思っています。

木や土自体、
決して断熱性能が高いわけではありませんが、
これらの素材の自律作用を生かしつつ、
家全体に風の流れを作り、
熱や冷気を和らげる仕組みを作るのです。

例えば屋根に関しては、
きらくなたてものやの場合、
瓦を載せ、その下には瓦を受ける野地板。
さらに1寸厚の通気層を挟んで、
家の中の天井を兼ねた、
厚い板による化粧野地板。
なお、通気層の空気は、
軒先と棟に換気口があり、
常に空気が流れています。

これで先ほどのような現象となります。

空気が流れるというのは重要で、
それは瓦と野地板の関係を見ても分かります。
瓦と野地板は、けっこう隙間が空いているもので、
この隙間が、熱を和らげてくれます。
試しに、太陽が燦燦と照っているときに、
瓦の裏を触れてみると、
これがかなり熱いのですが、
その直下にある野地板に触れると、
不思議なほど熱さを感じない。

しかし、その通気層、
過酷な熱や冷気を和らげてくれるということは、
常に過酷な熱や冷気に晒されているということですから、
蒸れたり結露したりしやすく、
その場合は、次第に周辺の素材が傷んでしまいます。

ですので、
通気層を設ける際には、
空気の流れる状況、
あるいは湿気のこもらない状態を作るということを
常に意識する必要があります。

そうした視点で見ると、
五十嵐さんの燻し瓦は、
たいへん優れものです。

と申しますのも、
釉薬を塗らずに、
達磨窯で焼いてくださる
五十嵐さんの瓦は、
スポンジのように水を吸い込みます。
この作用が、
瓦と野地板の隙間の湿度を
自ら調節してくれるのです。

さらには
水を吸うということは、
いずれはその水を吐きます。
その際に気化熱が奪われますので、
水を通さない今の一般的な瓦と比べると、
夏場に関しては、温度の変化が緩やかだといえます。

温熱環境のことだけではありません。
瓦のこうした作用によって、
野地板がいつまでも元気な状態でいてくれるので、
かえって屋根は長持ちするそうです。

緩やかに受け入れること、
呼吸すること。

これが家の健康の秘訣のようですね。

あ、人間も同じだ。